2004年京都の秋の旅

 

2004年12月2日から4日の短い期間ではありましたが、京都の秋を楽しんできました。2004年異常気象という暖冬で紅葉も11月下旬から12月初旬が見ごろとなり、ちょっと遅いと思われた京都の旅でも十分に紅葉を楽しむことができました。また、2004年は香取慎吾主演のNHK大河ドラマ「新撰組」がヒットしたこともあり、「新撰組」関連の名所も人気を集めていたので、そちらの方へも足を延ばして見ました。

 

 

音羽山 清水寺

高台寺

石塀小路

八坂神社

新撰組所縁の地

四条河原町周辺

東本願寺

 東福寺

実相院

永観堂

何有荘

青蓮院門跡

二条城

二年坂・三年坂周辺

圓徳院

 

 

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音羽山 清水寺

音羽山清水寺は、1200余年前の奈良時代の末、宝亀9年(778年)に開かれたお寺で、1994年にはUNESCOの世界遺産に登録されました。清水寺の由来は音羽の滝の清水より名付けられもので、清水寺の宗派は北法相宗(きたほっそうしゅう)という単立の一寺一宗です。現在は○○宗の○○寺と言うように一寺一宗ですが、奈良時代まではひとつの寺にいろいろな考えの僧侶がいて勉学をしていましたが、平安時代になって一つの考えの僧侶だけで一つの寺を使用するようになったようなので、一寺一宗のお寺としては古い歴史があります。清水の舞台は徳川三代将軍家光が古式にのっとり再現したもので、139本の巨木の柱の組合せで造られています。

清水寺からは京都の街(洛中)が一望でき、夕日を浴びた清水寺と紅葉したモミジは「紅葉の名所」に恥じない美しさでした。また、夜の清水寺が期間限定で開放されていて、ライトアップされたモミジの風景は昼間とは別の世界を作り出していました。

 

 

 

高台寺

高台寺は、豊臣秀吉の正室で知られる北政所「ねね」(1548〜1624年)が、慶長10年(1605年)太閤秀吉の菩提を弔うために建立した寺で「蒔絵の寺」としてひろく知られています。天正13年(1585年)秀吉が関白に叙任されて天下人になると、ねねは北政所という尊号で呼ばれることになりました。それは、2人が結婚してから24年目のことでした。慶長8年(1603年)北政所は後陽成天皇より、「高台院」の号を勅賜され、慶長9年(1604年)寺院の建立に向けて動き出しました。その名も号にちなんで高台寺と決められたそうです。慶長10年(1605年)北政所の高台寺建立の動きを知った家康は、酒井忠世・土井利勝を高台寺造営御用掛、京都所司代板倉勝重を普請奉行、堀監物直政を普請掛に任じ財を惜しまず協力し、福島正則・加藤清正・浅野長政等の北政所にとって子飼いの大名たちも力をかしたといわれています。これは、北政所の存在が家康にとって非常に大切な存在であったことがうかがわれる事柄の一つです。

高台寺のライトアップは、京都のライトアップされたお寺の中でも一番美しいとされているライトアップです。今年のライトアップのテーマは、「竹心」で、まっすぐに伸びる竹がライトアップされていました。また、庭園の時間差で光の輝きが変化するライトアップは幻想的な雰囲気を漂わせていました。

 

 

 

石塀小路

八坂神社の西楼門を出て下河原通りを南に下がり3筋目に小さな路地へ入る道があります。路地の両側に並ぶ町屋の基礎部分の石垣がまるで石塀のように見えるところから「石塀小路」という名前の由来が想像出来ます。石塀小路が出来たのは意外に新しく、大正時代のことで、 現在の小路に敷き詰められた石畳の一部は昭和50年代に廃止された京都市電の敷石を移設したものだそうです。小路の両側には料亭や旅館、スナックが建ち並び祇園の奥座敷として愛され、祇園にある多くの小路が昔の情緒を失っている中、石塀小路は伝統建築物保存地区に指定されているため、昔の風情をしっかり 残してます。一時期は、お妾さんの家が多かった事から「お妾 通り」と呼ばれていた事もあったようです。 また、その絶好のロケーションから雑誌等によく取り上げられるものの、入口が見つけにくいのか人が少なく情緒的な雰囲気を味わえます。小路は左右に折れ曲がり袋小路かと思う頃に高台寺通りへと抜けます。 夕暮れに歩くと、料理屋や旅館の看板が薄ぼんやりと光りさらに情緒が高まります。

今回は、しっとりと石畳が濡れたムードある石塀小路を散策しましたが、ここはやっぱり雨の降る夜がいいようです。ここのお店には入りにくいのですが、ついつい足が向いてしまいます。

 

 

 

八坂神社

八坂神社の歴史は、平安建都の約150年前−斉明天皇2年(656)と伝えられています。都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にあります。八坂神社には、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)、クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、ヤハシラノミコガミ(八柱神子神)が祀られています。スサノヲノミコトは、日本神話でも知られるようにヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらした偉大な神さまです。八坂神社一帯には広大な寺域を持ち、「定額寺」という高い格式を誇った観慶寺があり、別名を祇園寺といいました。その寺域内にあった「天神堂」が八坂神社の前身です。八坂神社はながらく、「祇園社」「感神院」などと称しましたが、明治維新の神仏分離にともなって、「八坂神社」と改称しました。

八坂神社は一年中ライトアップされていて、夜中(撮影時は0時を回っていました) でも境内に入ることができます。正面の門から見える現代の町並みは時空の洞窟から覗き見をしているようです。

 

 

 

新撰組所縁の地

@旧前川邸(現野田製作所)は、近藤・芹沢らの浪士が、京都に残ることを決めて以来、分かれて移り住んだ新撰組の壬生屯所の一つです。建物はほぼ当時のまま保存されていますが、現在は建物保持等の理由により非公開でした。山南脱走の罪で切腹した所として有名ですが、切腹の前の晩、山南の恋人明里との別れを惜しんだ出窓は、現在取り外されています。また、芹沢派の野口健司の切腹の場所でもある所です。元治元年(1864年)6月、新撰組に捕縛された枡屋喜右衛門(古高俊太郎)がこの屋敷の土蔵で拷問を受けたことから池田屋事件へと発展していきます。

A八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士の長老をつとめていました。幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られています。新撰組の隊士が増えると八木家だけでは賄いきれず前川家や南部家にも宿所を当てましたが、八木家の奥座敷は新選組三大内部抗争の一つ芹澤鴨暗殺の場となり、文久3年9月18日どしゃ降りの深夜芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺されました。現存する刀傷の一部が、その凄惨さを物語っています。当時の当主は11代八木源之烝應迅であり、八木家は現在15代目となっています。

BC壬生寺といえば新撰組を思いおこしますが、この寺は「壬生狂言」で有名な庶民的なお寺です。平安時代、三井寺の僧がこの地に地蔵菩薩を安置して堂を建てたのがこの寺のおこりで、後に地名にあやかり壬生寺と称しました。延命・厄除けの地蔵菩薩として信仰が厚く、節分の時には大勢の参拝者でにぎわいます。また、境内には壬生塚があり、近藤勇の胸像や新撰組隊士の供養塔、芹沢鴨ら隊士の墓などがあります。

D禁門の変(8月18日の政変)で京を追われたはずの長州藩士たちが潜伏し密会を重ねているという情報を得ていた新選組は、元治元年(1864)年6月5日、早朝に倒幕を志す尊王攘夷派の古高俊太郎を捕獲し、@の前田邸で拷問の末御所襲撃などの計画を知りました。祇園祭の宵々山でにぎわう同日夜、三条小橋の『池田屋』で密談していた討幕派浪士(長州、土佐藩の志士)たちを襲撃したのが池田屋事件です。現在、池田屋は、パチンコ屋となり、池田屋跡を示す石碑が建っているだけとなりました。

 

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四条河原町周辺

@A元祖一銭洋食のお店です。最近、他のお好み焼き屋でも出しているところがありますが、ここが元祖のようです。一銭洋食とは、 昭和の初め頃に京の庶民に広く親しまれていたもので、小麦粉を水で溶き、京野菜の代表的存在である九条ねぎ・干えび・紅しょうが等を入れて焼いたもので、当初は一銭で売られ安いソースものという意味で”一銭洋食”もしくは”べた焼き”と呼ばれていました。東京の「もんじゃ焼き」、仙台の「どんどん焼」、広島の「広島焼(広島風)」とともにお好み焼きのルーツと言われています。店構えが奇抜なので、すぐに判るお店です。

B鴨川は高野川、賀茂川が合流し京都市街を南北に貫く川です。今でこそ京の街を彩り、情緒を与えているが、平安時代には洪水を繰り返した暴れ河です。平安末期から河原は処刑の場となり、木曽義仲、石川五右衛門、石田三成らが処刑された場所としても有名です。近世になると芝居など興行の中心となり、出雲の阿国も出て、寛文年間(1661〜73)には歌舞伎の劇場が立ちました。夜の鴨川は散歩道としても最高です。

C豊臣秀次の母は豊臣秀吉の姉瑞龍院日秀であり、秀次は初め三好康長の養子となり、三好信吉といいました。天正10年(1582)康長と共に根来寺を攻め、そのあと養家を去り秀吉のもとに身をよせました。翌年滝川一益攻めや賤ヶ岳の戦いに軍功をあげ、河内北山二万石を与えられ、同12年長久手の戦いでは、徳川家康の奇襲にあい大敗しました。翌13年紀伊・四国平定の功により、近江・大和ほか43万石を与えられ、近江八幡に居城を構え、同18年秀吉の小田原平定後、尾張・北伊勢5郡へ移封されました。翌年秀吉の長男鶴松の夭折に伴い、秀吉の嗣子と定められ、関白となりますが、文禄2年豊臣秀頼が誕生後、秀吉との関係が悪化し、謀反の噂も流れるようになりました。そのため、秀吉により高野山に追放され、自害を命ぜられ、その墓がこの地にあります。

 

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東本願寺

東本願寺は、浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。本願寺は、はじめ京都東山の麓の大谷にあって、親鸞聖人の遺骨と御影像を六角の小堂に納め、「廟堂」「御影堂」 とよびました。1602年、徳川家康は本願寺第12代・教如上人に現在地の東六条に寺地四町四方を寄進し、これによって東本願寺が誕生しました。その後、東本願寺は江戸時代、四度の火災にあい、現在の建物はすべて明治期になってから再建されたもので世界最大の木造建築物です。

境内は、イチョウの紅葉が最盛期で、黄色一色の境内を楽しむことができました。

 

 

 

 東福寺

京都五山の一つで広大な境内に伽藍が並ぶ、紅葉の東福寺は摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。嘉禎2年(1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成させました。現在の伽藍は明治14年火災の後再建されたものです。通天橋として知られシーズンには凄い賑わいとなります開山堂への回廊や通天橋(洗玉澗の谷間)からの紅葉はカエデが二千本もある紅葉の名所となっていて、一見の価値有ります。

 

 

 

実相院

実相院は、もとは天台宗の寺門派でしたが、現在は単立寺院になっています。鎌倉時代1229年に藤原(鷹司)兼基の子、静基僧正が北区の紫野に創建されました。いちど御所の近くに移り、その後応仁の乱を逃れるためこの地へ移ったと言われています。京都に紅葉スポット数あれど、地元の人に人気が高いのが実相院のよく磨かれた板張りの床に、庭の色づいた紅葉が映し出される「床紅葉」です。

 

 

 

永観堂

永観堂の正式な寺名は禅林寺ですが皆さん親しみを込めて永観堂と呼んでいます、山手に塔頭が並び回廊沿いに紅葉が多数有り、門横の池廻りと堂内両方から紅葉が楽しめます。本尊は首を左に振り返る阿弥陀如来仏で「見返り阿弥陀」と呼ばれています。真紹僧都が平安時代に創建し後、承暦時代頃(1077年頃)に永観律師が住職となる、貧しい病人に徳を施した永観を慕いいつしか永観堂と称されるようになりました。

 

 

 

何有荘

禅寺の近くにある庭園、何有荘(別名、幸福寺)は今迄非公開でしたが、今年100年ぶりに公開されました。何有荘は以前、南禅寺塔頭の跡地であり、稲畑産業の創始者稲畑勝太郎が購入し、明治28年に小川治兵衛(平安神宮、円山公園、桂離宮などの庭園を作庭)に小堀遠州流の庭園を造らせたものです。山の斜面を利用した六千坪の大庭園には池や滝があり、そこここに茶室や庵、鐘楼、石造物などが数多く 配置されています。高台にある草堂からは京都市内や東山、北山、西山が望めます。昼間の紅葉はすばらしい光景ですが、ライトアップの庭園しか見ることができませんでした。

 

 

 

青蓮院門跡

青蓮院は、伝教大師最澄が比叡山延暦寺を建立した際、お堂の他に僧侶の住まいの『坊』をいくつか作りました。そのひとつに青蓮坊と云うのがあり、それが当院の始まりだと云われています。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)は、天台宗の京都五箇室門跡の一つに数えられ、格式の高いお寺とされております。五箇室とは、青蓮院門跡・妙法院門跡・三千院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡の五ケ寺を指します。門跡寺院というのは、門主(住職)が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきたお寺のことです。そうした背景が上品で優しい雰囲気を持たせているのかも知れません。

今年は、第十七回夜の特別拝観のライトアップが開催いされ、テーマは青蓮院のご本尊 熾盛光如来に因み、「光の由来」−熾盛の光の曼荼羅−として開催されました。ご本尊の熾盛光如来は光そのものであり、その化身の不動明王も炎の光を背負っています。大小300の照明器具による芸術的なレベルの高い景観照明が施され、闇に浮かんでは消える燃えるようなもみじの美しさ、光の中で雄大な力を感じる天然記念物の大クスノキ5本、青く光る静清な竹林、一面の苔庭の海に浮かぶ光の曼陀羅など、現世を離れた浄土を現出させていました。

 

 

 

二条城

二条城は、慶長8年(1603年)徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)完成したものです。徳川幕府の京都での一大拠点で、平成15年は築城400年を迎えます。家康が京都での別館として造営され、265年後慶喜により大政奉還がなされた歴史転換の舞台です。二条城は、その建物も大きいのですが、庭園もまた広く江戸時代に造られた二の丸庭園、明治時代の本丸庭園、昭和時代の清流園の3つの庭園があり、隠れた紅葉の名所かもしれません。

 

 

 

二年坂・三年坂周辺

@二年坂の名の由来には二つの説があって、三年坂に比べて小さな坂という事から来ているという説と大同2年に出来たからとする説ですが、地元の子供達の間では、三年坂で転ぶと三年で、二年坂で転ぶと二年で死ぬと信じられています。二年坂の先には一寧坂という場所もあることから正式には二寧坂という説もありました。

AB三年坂 の名前の由来として、清水寺に参拝した人がこの坂道で再び念願を強くするから再念坂、あるいは、願いが叶ったあとで観音様への御礼に再度お参りする時に通る坂であることから再念坂と呼ぶようになったという説があります。京都を旅行する大勢の人が一度は歩いたことのある京都の中でも最も京都らしい一角がこの三年坂です。

CDねねの道を抜け二寧坂に向かう二寧坂通りに、あちこちにお地蔵さんが立っていて、それぞれのお地蔵さんが面白いメッセージを掲げている場所があります。お地蔵さんを見ているだけで癒される京都の新名所となるかも。

 

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圓徳院

豊臣秀吉の妻、北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築し移り住みました。ここには、北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が訪れたと伝えられています。これが今日の圓徳院の起こりであり、ねねは77歳で没するまでの19年間をこの地で余生を送り、この地は北政所の終焉の地となりました。そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房である。圓徳院は利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、寛永9年、ねねの没後9年目に高台寺の塔頭とされました。なお、円徳院は、現在高台寺の塔頭寺院となっています。座敷から眺める庭園が三色にライトアップ紅葉をうきあがらせ、高台院の神々しさが漂う寺院です。

 

 

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